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【淡路歴史探訪】その1「海峡の守護神、江崎灯台と松帆台場」

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レポーター紹介

投稿者歴じい
性別男性
年代50代
住まい兵庫県淡路市
趣味読書(司馬遼太郎など)
自己紹介淡路生まれの淡路育ち。歴史好きで戦国時代以降、明治の近代化までに興味があります。あまり光の当たっていない「淡路島の歴史や人物」をご紹介できたらと思っています。

海峡の守護神、江崎灯台と松帆台場

1日1,400隻もの船が行きかう海上交通の要衝、明石海峡。その海峡を見下ろすように山の中腹に建てられた江崎灯台は、灯台の父とも呼ばれるイギリス人技師のリチャード・ブラント設計のもと、日本で8番目に建設された西洋式灯台として明治4年(1871)に初燈、以来149年経った今も現役で行きかう船の無事を祈って灯をかざし続けている。

 

(眼下には、世界一の明石海峡大橋と行き交う船が見渡せる)

 

 

山の中腹にある灯台からは眼下の明石海峡、明石海峡大橋はもちろんのこと、家島諸島や小豆島まで播磨灘が一望の下に見渡せる。

空と海が時刻と天候によって織りなす豊かな表情とともに、行き交う船を目で追うとゆったりとしたタイムスケールに浸ってしまい、時が経つのも忘れてしまう。

 

(小豆島の島陰に夕陽が沈む)

 

 

灯台訪問で忘れてはならないのは駐車場から灯台に向かう石段途中にある野島断層。1995年の阪神淡路大震災の震源となった、野島断層が石段を横切っている。

石段の敷石が1.2メートルにわたって横ずれをおこし、できた地割れは薄赤いコンクリートで埋められている。今も大きな災禍をもたらした大自然のパワーを感じることができる。

(石段を横切る野島断層)

 

 

江崎灯台から500mのところに海峡の守護神、徳島藩松帆台場跡がある。

幕末のペリー来航や大阪湾へのロシア船侵入など外国船による脅威を感じた幕府は安政5年(1858)、徳島藩に命じて明石海峡の最狭部の松帆の浦に砲台を建設させた。

4年がかりの文久元年(1861)に完成した砲台は東西150メートル、南北100メートルにもわたる大規模なもので、M字型の強固な土塁の上に13門の大砲を置き、出撃用の小型船の港まで掘削して造られた。

ただこの砲火が外国船にむけられることは一度もなかったが、幕府の軍艦で、オランダで造られた咸臨丸の姉妹船、朝陽丸を外国船と間違って砲撃し、舵付近を破壊している。この誤射の責任をとり砲台の司令官が切腹している。当時の混乱ぶりがうかがえる。

(外国船に備えるため幕府の命令で、海峡両岸の舞子と松帆に砲台が築かれた)

 

(土塁の上には13門の砲が並び京・大阪をうかがう外国船に備えた)

※なお現在は民間保養所の敷地となっているため、見学にあたっては許可が必要。

 

 

藤原定家が歌い、小倉百人一首でも親しまれている

『来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪(ゆうなぎ)に 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ 』

の歌はこの松帆浦の情景をよんだものである。

明石大門(あかしおほと)とも詠まれ、いにしへの船旅をおくるものにとっては都への出入り口であり、哀愁の地。

 

第1回目は、淡路島の玄関口・江崎の歴史を追ってみた。次回に続く。

※記事内容は取材当時の情報です。詳細は各イベント・施設・店舗までお問い合わせください。

Date:2020.04.09